今回のJAPAN STORYは邪馬台国・卑弥呼
邪馬台国は畿内説と九州説?
どちらなのか?
中国の歴史書の「旧唐書」(くとうじょ)の中に、九州から倭の使者来た同じ日に、畿内から別の倭朝廷の使者が来て、我こそがヤマト朝廷であると、皇帝の前で言い争ったと記されていて、結論はどちらも正しいと言う事なんですね。
当時の日本は畿内に「大和の国」「紀伊の国」「丹波の国」また九州には「肥後の国」」「筑前の国」と言うように、現在の県の様なものをそれぞれ「国」と表現していたのが、3世紀半ば、「大和朝廷」によって統一されたと日本書記に記されています。
中国の歴史書「魏志倭人伝」に2世紀の後半「倭国大乱」で、各地の豪族が争い、その争いを収めたのが「卑弥呼」であると記されています。本来「日巫女」が正しいのですが、中国人がその発音を漢字に置き換えると「卑弥呼」となって記録された様です。
また、卑弥呼が「魏の皇帝」に「勾玉=まがたま」を3個送ったとあります。
当時、驚く程貴重な物で、「勾玉=まがたま」に使用する「翡翠=ひすい」は鉄より固く加工出来なかったので、それを加工出来る職人を献上したのです。それを喜んだ皇帝から「親魏倭王」と言う最高の名前を贈られたことが記されています。
とても面白いので、「卑弥呼」を更に深掘りしてみます。