今回のJAPAN STORYは、大阪城と本願寺について楽しみたいと思います。
大阪城は石山本願寺の跡地に、1585年、豊臣秀吉によって築かれたのですが、1570年に織田信長との決戦が10年続くのです。これを石山本願寺一揆、石山合戦と呼ばれ、この時、2万人以上の僧侶・門徒が命を落とすこととなりました。
なぜ、信長はあれほど石山本願寺にこだわったのか?
相手は所詮、僧侶と老若男女の民衆の集団です。信長軍団の敵ではないはずの戦いが10年も長引いたのも不思議です。「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」を唱える本願寺一向宗信徒が捨て身だったとはいえ、信長軍は敗退の連続だったのです。
戦国時代、満潮には海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、雨が降れば一面水浸しの湿地帯。浪速、難波は名前のとおり海の波にさらされていて、大坂の河内もまさに「河の内」。当時の大坂、摂津地方で唯一この石山の上町台地だけが乾いた高台であり、さらに、当時の物流を担っていた船の行き交う要所がこの上町台地でした。この上町台地は淀川の河口に位置していて、京都の朝廷を牽制でき、さらに貿易港・堺への通過点であり、西国大名を討伐する最前線基地になり得る場所で、信長はこの土地を何が何でも手に入れたかった訳です。
安芸の大名、毛利輝元は大坂湾の制海権を握る村上水軍と手を結び一向宗の側に立ち、上町台地の石山本願寺へ物資を補給しました。そのため石山本願寺への攻撃ルートで残されていたのは、上町台地の南端の天王寺囗だけでした。本願寺側はその狭い天王寺口を固めるだけで、僧侶や民衆の力でも容易に防御ができました。信長がこの本願寺を攻めあぐね、戦いが10年も長引いたのはこの為だったのです。
石山本願寺内では、長引く戦いに信長と和睦するか、徹底抗戦するかで意見が対立。
和睦を主張したのは、石山本願寺の宗主であった顕如(けんにょ)と、顕如の三男の准如(じゅんにょ)。
徹底抗戦を主張したのが、顕如の長男の教如(きょうにょ)です。
最終的に顕如が和睦を決め、石山本願寺は信長に明け渡されることになるのですが、この時の対立がもととなり、顕如は浄土真宗の宗主の座を長男の教如ではなく、三男の准如に譲ることとなり、顕如と教如兄妹の対立は決定的となりました。
この事が、西本願寺、東本願寺に分かれる切っ掛けになるのです。この話も面白いので、本願寺の歴史背景は次回楽しみたいと思います。
1580年、石山本願寺の明け渡し直後、信長は火を放ち全焼させます。
その後、信長が本能寺の変で討たれたのち、1585年、豊臣秀吉によって大阪城が築かれ、1591年、秀吉の命により、本願寺は准如が継承し再び京都・七条堀川に御影堂と阿弥陀堂を建築しました。これが現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派)です。
一方、徹底抗戦を主張した教如は、徳川家康に接近し、1600年、関ヶ原の戦いを経て、1602年、七条烏丸に寺の寄進を受けました。これが現在の東本願寺(真宗大谷派)です。