※写真は閻魔前町「千本えんま堂」本尊は閻魔法王
今回のJAPAN STORYでは、京都の地名や町名の由来について探ってみたいと思います。京都は、王朝文化が栄え、貴族たちが優雅な生活を送っていた「華やかな町」というイメージがありますが、一方で幾度も戦乱が繰り返されてきた「怖い町」の一面もあります。実は、これらの歴史が地名や町名に刻まれているのです。
かつて、洛中で亡くなった人々は、洛外の葬送地に葬られていました。当時は風葬が行われており、死者の体は木に吊るされ、鳥に肉を食べさせる「鳥葬」や「風葬」が行われていました。このように、平安京の時代には少し怖い風習があったのです。
京都の死体捨場は、洛外にはいろいろありましたが、東山の清水寺~大谷本廟付近の「鳥辺野(とりべの)」、嵐山の北西に位置する「化野(あだしの)」、そして市内北部、船岡山西側の「蓮台野(れんだいの)」が、京都・平安京の三大葬送地と呼ばれた場所です。
では、その名の由来ですが、
「鳥辺野(とりべの)」とは、死体が鳥に喰われるに任せるところから「鳥辺野」と言います。
「化野(あだしの)」の「あだし」とは「はかない」「むなしい」の意味があり、
「蓮台野(れんだいの)」の蓮台とは「浄土に往生する者の身を託すもの」を言い、その地名が付いたそうです。
これらの地域に入る際、あの世とこの夜の境目にある場所を指して「六道の辻」と言います。
六道とは、死後に行くことになる六つの世界のことで、次の通りです。
地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六つの冥界で、ここを通ることで、あの世とこの世の違いを感じることができるという意味です。
※写真は千本通り立てられていた卒塔婆のイメージ
蓮台野
「蓮台野(れんだいの)」は、船岡山の西側に死者の埋葬地があったと伝えられています。後冷泉天皇や近衛天皇などの火葬塚があり、主に皇族の葬送地となっていました。この他、この場所には毎晩多くの死者が運ばれており、後に千本通りとなった道がその経路だったのです。死者を弔うために、道の両側にはたくさんの卒塔婆が立てられていました。そのため、「千本」という名前は「数えきれない」「無数の」という意味から来ており、千本通りと呼ばれるようになりました。また、船岡山の手前には「閻魔前町(えんままえちょう)」という地名があります。これはあの世の入口である閻魔様の住む場所を示す名前で、閻魔前町は紫野への出口であり、平安京への入り口でもあったそうです。
鳥辺野
※写真は、大谷墓地(大谷本廟)
※写真は、東大谷墓地(大谷祖廟)8月に開催される東大谷万灯会
「鳥辺野(とりべの)」に至る「六道の辻」は、鴨川の東岸、五条大路(現在の松原通)にあります。ここには、冥界との境界を示す「六道珍皇寺」の前に丁字路があり、「六道の辻」を示す石標が立っています。昔、この場所では髑髏(どくろ)が散らばっていたため、「髑髏原(どくろはら)」と呼ばれていました。しかし、江戸時代の寛永年間に「轆轤原(ろくろはら)」と改名され、今では「轆轤(ろくろ)町」として知られています。
化野
※写真はあだし野念仏寺の石塔群
※写真は毎年8月の最終土・日に開催される千灯供養
「化野(あだしの)」に至る「六道の辻」は、清凉寺から大覚寺に向かって約5分ほど歩いたところに、「六道の辻」の石碑があります。現在の化野念仏寺は、平安初期(811年)に真言宗の開祖、空海が設立したとされています。空海は、化野に無数に放置された遺体を哀れに思い、疫病を防ぐために遺体や遺骨を埋葬しました。その上に1000体の石仏と堂を建て、五智如来寺と名付けました。当時は真言宗でしたが、鎌倉時代初期に法然によって浄土宗に改められました。そのため、常に「南無阿弥陀仏」と唱えられるようになり、「念仏寺」と呼ばれるようになったのです。