JAPAN STORYでは、以前「大阪城と石山本願寺一揆」を楽しみ、本願寺が「浄土真宗本願寺派・西本願寺」と「真宗大谷派・東本願寺」に別れた背景を呟きました。今回は本願寺(浄土真宗)のはじまりから石山本願寺を本寺とした背景を楽しみたいと思います。
平安時代までの仏教は文字を介した学術的な側面を含んでいたことから、信仰するためには教養が必要な宗派でした。具体的には真言宗(弘法大師空海)と天台宗(最澄)です。
鎌倉時代には、庶民仏教となる「浄土宗」や「浄土真宗」、「日蓮宗」、「曹洞宗」、「臨済宗」などの新たな宗派が誕生しました。
それでは、浄土真宗の開祖、親鸞(しんらん)についてですが、師として、浄土宗の開祖「法然」の教えを学びます。それは、「極楽往生は自らの力で行うものではなく、阿弥陀仏の力によってかなえられるもので、阿弥陀仏が念仏を称えるすべての人々をお救いくださる」と説く「他力本願」の教えでした。
親鸞は、その教えをさらに高めていくことに力を注ぎ、浄土真宗の教えを広めます。
当時、貴族階級に指示される仏教界においては異端視され、弾圧を受けることとなります。
ついには朝廷への訴えによって、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと流罪になります。
流罪が解かれた親鸞は20年にわたって布教し、その後京都へ戻り、90歳で生涯を閉じ、京都・大谷の地に眠ります。
その後、親鸞(しんらん)の弟子、蓮如(れんにょ)によって、1478年、京都・山科を布教の拠点として「山科本願寺」を建立します。
その頃、京都では日蓮宗が勢力を拡大し、幕府にも認められ、宮廷へ接近するまでになり、強い勢力を誇るようになっていました。1532年、浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がり、日蓮宗都(法華宗)は将軍義晴の命によって、細川晴元らと共に、山科本願寺を焼き討ちしたのです。
その際、法主・証如(しょうにょ)は寺宝ともども助け出され、大坂御坊へ避難し、1533年、石山本願寺を本寺としたのです。
最後に民衆に広がった仏教と言いましたが、それを裏付けるのが信者の数です。宗派が問題ではないのですが、供養の目的は故人や先祖への感謝の気持ちですから、その気持ちを大切にしたいものです。